読書「文章は接続詞で決まる」
資格試験で、文章が長くわかりづらいのが足を引っ張ったことを反省し、
購入したけれど、そのまま数年ツンドクしていた本。
一通り読んでなんとなくはわかったけれど、こういうジャンルの本って
どうやって身に着ければいいんでしょう。
何回も繰り返し読むのかしら。
(でも何回も繰り返して読みたいほどは面白くない^^;)
処分しようと思ったけれど、もう少し繰り返し読んだほうがいいかも
しれないので、とりあえず処分しないことにします。
(そしてまた数年ツンドクへ・・・)
ちょっと気になったところ
・「他者の意見」+「しかし」+「書き手の主張」
・一般的に逆説の多い接続詞の多い文章が読みにくいのは、他者の意見にも、書き手の主張にも逆説の接続詞がつけられてしまい、議論が入り組んでしまうから。
・「ところで」は自由な連想に基づく転換、「さて」は準備された話題に戻す転換。「では」は話の本題に入り、話の核心に迫る転換の予告。3つの中でもっとも展開の制約が強い。論理的に厳密。
感動したところ
清は玄関つきの家でなくっても至極満足の様子であったが、気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。死ぬ前日おれをよんで坊ちゃん後生だから清が死んだら坊ちゃんのお寺へ埋めてください。御墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
この「だから」がなぜ素晴らしいかというと、清に対する坊ちゃんの深い愛情が表れているからです。清は、坊ちゃんの家の使用人であり、当時の慣習から考えると、どうやっても坊ちゃんの家の菩提寺に入る資格はありません。しかし、幼いころから自分を心から愛し、大切に育ててくれた清が希望したのだから、それをかなえてやるのは当然だろうと坊ちゃんは考え、それをごく自然に実行するのです。
坊ちゃんは家族との仲が悪かったので、きっと清を菩提寺に入れるに当たっては、家族の相当な抵抗にも遭ったことでしょう。けれども、坊ちゃんは坊ちゃんらしく、じめじめした苦労話はいっさい書きません。愛する清が亡くなる描写でさえ、「気の毒なことに」の一言で済ましてしまっています。しかし、坊ちゃんの性格を考えると、ぶっきらぼうにしか表現できない不器用さの背後に、坊ちゃんの清にたいする計り知れない愛情が感じ取れるのです。
石黒圭「文章は接続詞で決まる」(光文社新書)230頁。
坊ちゃんのこの最後の部分がものすごく好きだったのですが、
その漠然としていた理由をこの本がぴたりと解説してくれました。
この箇所に遭えただけでも、この本を読んだ意味があったと思います。
久々に「坊ちゃん」を読み返したくなりました。
かなり面白かったです。